■ 1.プロフィール ― “生き方”そのものがメッセージだった男
大森昌也(おおもり まさや)さん。
1942年3月生まれ。2016年に74歳で亡くなりました。
彼は元・国鉄職員という異色の経歴を持ちながら、
都会の便利な暮らしを捨て、兵庫県の山奥で「自給自足生活」を始めた人物です。
拠点となったのは、兵庫県朝来市(旧・和田山町)の山間にある「あ〜す農場」。
山を切り開き、畑を耕し、水力発電を自作し、薪を割って火を起こす――
まるで“現代版・北の国から”とも言える壮絶な暮らしを、家族と共に築いていきました。
彼の言葉は常に静かで、しかし強かった。
「人間は自然に生かされている。だから、自然を裏切ってはいけない。」
その哲学的な言葉と生き様が、多くの視聴者の心を揺さぶりました。
彼を一躍知らしめたのが、フジテレビのドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』。
1998年の放送開始以来、「われら百姓家族」シリーズとして約20年以上にわたり取材が続けられ、
2025年には30周年特別企画として再び注目を集めています。
■ 2.学歴 ― 「知」と「理想」を持ち込んだ百姓
大森昌也さんの学歴は正式には明かされていません。
ただし、学生時代に学生運動に積極的に関わっていたことが知られています。
時代は1960年代。高度経済成長と同時に、社会矛盾が爆発的に表面化していた頃。
彼はその中で、「社会を良くしたい」という理想を胸に活動していたと考えられます。
知的で理論的な一面を持ちながら、現実社会の中で理想が打ち砕かれる苦さも味わった。
そしてやがて、こう思うようになります。
「社会を変えることはできなくても、自分の生き方なら変えられる」
この思想こそが、後に彼が山へ移住し、自給自足を貫く“原点”となりました。
学歴以上に、“人生の学び”を体現した人物だったのです。
■ 3.経歴 ― 都会を離れ、山で“自由”を取り戻すまで
国鉄に勤務していた若き日の昌也さん。
安定した職と社会的地位を手にしながらも、次第に心が乾いていくのを感じていました。
会社と家を往復するだけの毎日。
消費と便利さを追い求める社会。
どこかで、「人が生きる意味」を見失っているように感じたのです。
結婚し、家族が増え、父親となったとき――
転機は長男の病でした。喘息を患い、都会の生活が体をむしばんでいく。
その姿を見た昌也さんは、ある決意をします。
「この子を、自然の中で健康に育てたい」
そして1990年代初頭、家族を連れて山奥へ移住。
文明から距離を置き、「生きる力」を取り戻す暮らしが始まりました。
しかし現実は厳しかった。
雨風、虫、冬の寒さ、作物の不作。
それでも彼は言いました。
「ここで生きていく。それが、俺たちの選んだ道だから」
その頑固さと信念が、やがてテレビカメラを惹きつけ、
『ザ・ノンフィクション』が長期密着するきっかけとなったのです。
■ 4.結婚相手 ― 理想と現実の狭間で
昌也さんの妻の名前は非公開です。
番組でもほとんど登場せず、一般には知られていません。
学生運動を通じて出会った、同じ理想を持つ女性だったとされています。
夫婦で都会から離れ、自然の中で暮らし始めた当初は、
「家族で理想を形にする」という強い信念を共有していました。
しかし、山での生活はあまりにも過酷。
水を汲む、薪を割る、畑を耕す――そのすべてが命がけの作業。
価値観の違いも少しずつ生まれていきます。
やがて、長男が15歳の頃、妻は家を出ていきました。
離婚後、昌也さんは6人の子どもたちを男手ひとつで育てることになります。
孤独で、しかし力強いその姿は、視聴者の心に深く残りました。
「父として、百姓として、生き抜く」――その姿勢は一貫していました。
■ 5.子どもたち ― “生きる”を体で学んだ6人の子ども
大森家には6人の子どもがいます。
男3人、女3人――山の中で助け合いながら成長していきました。
- 長男 ケンタ
幼い頃に喘息を患い、家族の移住のきっかけとなる。学校に行かず、父を手伝いながら成長。
後に独立し、自分の人生を歩み始める姿が番組で描かれた。 - 次男 げん
寡黙で控えめだが、家族の中では頼もしい存在。父の跡を継ぐように農作業を支えた。 - 三男 ユキト
末っ子として明るく家族を和ませる存在。成長とともに外の世界へと羽ばたいていった。 - 長女 ちえ
姉として弟妹を守り、家事や畑をこなすしっかり者。後に家を出て新しい人生を模索。 - 次女 れい/三女 あい(双子)
双子として常に一緒に登場。幼少期の純粋な笑顔は、番組の象徴のようだった。
成長後はそれぞれ独立し、結婚や新生活が描かれた。
学校では学べないことを、彼らは“生きる実践”の中で学びました。
自然の中で働き、失敗し、泣き、笑い――その姿が多くの視聴者の共感を呼びました。
■ 6.死因 ― 「最後まで百姓」であり続けた人生
2010年代半ば、大森昌也さんを病魔が襲います。
最初に発症したのは前立腺がん。
闘病を続けながらも、彼は畑に立ち続けました。
その後、上顎洞がんを発症。
左目を摘出しながらも、自らの手で作物を育てることをやめなかったといいます。
「体が動くうちは、まだ生きてる。百姓だからね。」
その言葉通り、病床にあっても農具を離さず、
自然の中で生きる誇りを持ち続けました。
2016年3月24日、静かに息を引き取りました。享年74。
その最期まで、彼は“百姓”としての自分をまっとうしたのです。
■ 7.考察 ― 不便の中にあった「自由」、孤独の中にあった「愛」
大森昌也さんの人生は、単なる“田舎暮らし”ではありませんでした。
それは、現代社会に対する問いかけであり、挑戦でもありました。
社会のシステムや常識を疑い、自分の手で「生きる」を取り戻す。
その覚悟は、多くの人が忘れてしまった“原点”を思い出させてくれます。
不便な暮らしは、決して不幸ではない。
便利な生活の中で、私たちは何を失っているのか。
「生きるってことは、苦しいけど、ありがたいことなんだ」
彼が語った言葉の数々は、時代が変わっても色あせません。
“百姓”という生き方を通して、大森昌也さんは「人間とは何か」を静かに問い続けたのです。
■ 8.まとめ ― 生きることの意味を、教えてくれた人
『ザ・ノンフィクション』で描かれた大森昌也さんの生涯は、
1人の男の記録であると同時に、現代社会そのものを映す鏡でした。
彼は便利さを捨て、不自由の中に自由を見つけた。
孤独を抱えながらも、家族と共に「生きる意味」を探し続けた。
そして今もなお、
彼の生き方は多くの人の心に問いを残しています。
「あなたにとっての“豊かさ”とは、何ですか?」
この問いこそ、大森昌也さんが最後に私たちに残した“宿題”なのかもしれません。
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